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車売る女
自動車の海外グローバルビジネス講座へようこそ
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車売る女
ミンチーは車売る女になる以前は、
ホームレスだった・・こともありました。
事故車で車中泊した・・こともありました。
事故車で暮らした・・こともありました。
自動車を、海外に販売するという販売ノウハウ、テクニックを知りました。
そして、解き放たれました。
私は、自動車を海外に販売するという販売ノウハウを知ったので、海外グローバルビジネスは、自動車をその商材に選びました。
あなたが海外グローバルビジネスを始めるときには、あなたが一番相応しいと思う商材で海外グローバルビジネスを始めて頂ければよいと思います。
海外グローバルビジネスの顧客は、基本海外に在住する外国の方々になります。
ですので、会社のホームページも英語による自社ホームページと日本語のホームページを用意することになります。
私も自営でやっていた頃は両方、ホームページを用意していました。
英語による自社ホームページの必要性は、海外グローバルビジネスの顧客は海外の方であることからもお分かりになることでしょう。
では、日本語による自社ホームページの必要性は、何のためでしょうか。
海外グローバルビジネスの顧客を考えたのならば本来は必要ないはずです。
しかし、顧客に販売する自動車を仕入れる仕入先は国内の業者になります。
国内の業者だったら、実際に会った際に営業トークの中で説明すれば良いのではないでしょうか。やはり今の時代は、日本語による自社企業について説明したホームページが在った方が確実に会社の信頼度は上がります。
面倒かもしれませんが、英語と日本語による自社ホームページはどうしても必要です。
私も自営でやっていた頃は、準備は面倒だったのですが、仕方なく用意しました。
車売る女ミンチー、まなみです。
私が勤めるプリンセストレーディングは、中等部時代に同級生だった今井祥恵が代表、社長を務める長野県に本社のある自動車輸出会社になります。
そこで私は、自動車輸出部の営業部長、営業マネージャーをしています。
海外グローバルビジネスの顧客、海外バイヤーと出会い、自動車の海外グローバルビジネスを始めるためには、英語によるホームページが必要と述べました。
もちろん、プリンセストレーディングも日本のジャパンメイドの自動車を世界へ輸出販売している海外グローバルビジネス会社です。
英語による自社ホームページ(右上のアメリカ国旗をクリック)は、もちろん日本語による自社ホームページ(右上のアメリカ国旗、日本国旗で切替え)も所有しています。
プリンセスゆみが制作しました。
プリンセストレーディングのホームページを制作し、運用管理しているのが、中等部時代の同級生であり社長でもある今井祥恵の妹、プリンセスゆみです。
プリンセスゆみは、WEBデザイン、ホームページ作りは大のお得意です。
プリンセスゆみのお得意はWEBデザイン。ホームページ作りで車の海外販売を本格的に始めたいあなたのために「車の海外販売ネットショップ」を制作、提供することで、あなたの海外グローバルビジネスを後方支援していることは、もうご存知ですよね。
実は、私もプリンセストレーディングに入社する前は、フリーで自動車の海外グローバルビジネスをやっていた経緯があります。
その時は、今井祥恵が同級生だったこともあり、妹のプリンセスゆみに私自身の英語による自社ホームページを作ってもらいました。もちろん、日本語も作ってもらいました。
プリンセスゆみは、ホームページのことはわかっていても、具体的な自動車の海外グローバルビジネスについては、よくわかっていないことも多いです。
ですので、具体的な海外グローバルビジネス面については、私や社長の今井祥恵がフォローすることで、あなたの海外グローバルビジネスを後方支援するというサービス形態を取らせて頂いております。
私は、小学校時代は親の仕事の関係でニューヨークで暮らしていました。ニューヨークから帰国すると、東京の吉祥寺に在る私立学園に入学し、今井祥恵と出会いました。
私の中等部時代
そこで今井祥恵と出会った。
私がニューヨークから帰国して、入学した中等部は明星学園という私立の学園だった。明星学園は制服がなく私服の学校でした。
今井祥恵は運動が得意で活発な女子だった。女子バスケ部に所属していました。
ニューヨーク暮らしの頃から、運動が得意でスカートなど全くはいたこともなかった私も祥恵と同じ女子バスケ部に入部しました。祥恵とは、同じ部活で仲が良くなりました。
ちなみに、スカートといえば、中学生の私はスカートを全くはかない女子でした。いつもパンツ、ズボンばかりでした。学生時代、私は、一度もスカートをはかずに学園生活を過ごしていました。
長身で細身の私は、あんまりスカート姿が似合わなかったというのもありました。
そんな私が、明星学園中等部の卒業式のとき初めて学校に紺のブレザーにスカートをはいて出席しました。
「まなみがスカートはいているよ!」
この卒業式での私のスカート姿が、後々までずっと同窓会の話題になっていました。
いま見返しても、スカートからでた筋肉質の足にバスケの靴下は恥ずかしい限りです。そんな私も、今では中古車オークション会場にミニスカートで出入りするようになりました。
明星学園には高等部もありました。
が、私は、その高等部には行かずに自宅近所の高校に通うこととなりました。
この高校が悪かったのか。
まあ、自分が浅はかだったのですが、ちょっとワル、ヤンキーだった頃もありました。兄の乗っていた大型バイクを譲り受け、大型バイクにまたがって通学していました。
通学というか、ほぼサボってました。
ヤンキーだった高校時代は、今井祥恵とは一切交流がありませんでした。
高校を卒業して、勉強はともかく、大型バイクだけは好きだった私は、自動車整備工場に就職、勤務するようになりました。
その頃には、さすがにヤンキーは辞め、染めていた茶髪も黒髪に戻し、つなぎの作業服を着て、毎日車の下に潜りこんでいました。
髪は茶髪のままでいても良かったのですが、暗い工場の車の下で、毎日油まみれになりながら過ごしていたので、おしゃれなど全く無縁なものになってしまっていました。
自宅と整備工場を往復するだけの毎日でした。
就職した自動車整備工場。
毎日、大好きな車と過ごせていたので、充実しており、楽しい仕事でした。ずっとこのまま、車のエンジン整備しながら過ごせたら良いなと思っていました。
それがある日、当時の整備工場社長が、工場前に在った「紳士服の青木」でレディスの紺パンツスーツを購入してきました。
「似合うじゃないか」
私は、それに着替えさせられました。
「そのパンツスーツは、お前にプレゼントしてやる。これからはそれが会社の制服だ」
と社長に言われました。
そして、社長の車で中古車オークション会場に連れていかれました。
「ここがオークション会場だ」
会場で社長から、中古車オークション会場の入館証を手渡されて、それからは中古車オークション会場に出入りし、整備工場で扱う中古車の仕入れを任されるようになりました。
初めは、オークション会場にいるより車の下に潜りこんでエンジン、機械いじりしているほうが楽しかったです。
それが、だんだんと会場でいろいろな車を眺めて物色するのも楽しくなってきました。整備工から車の仕入れを担当するようになって、お給料も少し良くなりました。
パンツスーツは着ていて暑苦しい夏の日だった。
社長はパンツスーツだけでなく、スカートスーツまでも購入してくれました。
最初は、スカートは着るの嫌だなと思っていたのですが、パンツスーツとスカートスーツの2着しか持っていなかったので、洗濯中に着ていると、だんだんスカートにも慣れてきました。
これが、今の私が中古車オークション会場にミニスカートとロングブーツで出入りするようになったきっかけでした。